流れゆく時と移ろう季節。あそことここでは流れ方は違うのだろうか。ただ季節だけでいえば、ちょうど今頃だと思った。
瞼の裏にはあの光景が目に浮かぶ(世界が、一度崩壊した、その瞬間だった)。
全て遠い過去だ。そう、瞼を開ければ白い天井がそこにあり、明々と光がある。

ドアがノックされたかと思うと、返事もまたずに明るい髪色の人物が入ってくる。
彼はベッドに横たわるヴァンツァーを見て目を丸くした。
「珍しいな」
レティシアは話しながらベッドの端に座ると、首を捻って相手を見下ろした。
藍色の瞳が不審気に見上げてくる傍らで、飴色が何処か戸惑ったような色をしていた。
ヴァンツァーは自分を見つめたままのレティシアに居心地の悪さを感じて体を起こす。そのままベッドが接する壁に凭れた。
「なんだ、さっきから」
「何もしてないヴァッツってのが珍しいんだよ」
同じようにベッドに乗り上げて隣に座るレティシアを見て、こいつもよく来るなと思う。
「……課題は終わった」
「お前のことだからどうせ大量だったんだろうな。でもいつもならその後も勉強だのなんだのしてるじゃねえか」
言おうか言うまいか悩んだが、訝るレティシアの目は見透かすようであった。飴色の目が真っ直ぐと自分を突き刺す。
不意に悟られないように構えることが煩わしくなって、ヴァンツァーは顔を正面に戻してぽつりと呟いた。
「気が、乗らない」
隣の人物が驚く気配が伝わってきたので、ヴァンツァーは笑った。
どちらかというと、いつもこちらが驚かされたりと精神的に不利な状況に陥るから、たまに相手を動揺させると悪戯が成功したような気持ちになった。
先程までの鬱屈した気持ちが軽くなっている。
珍しくもレティシアの来訪に少しだけ感謝して、それからふとささやかな悪戯を思いつく。悪戯というよりは自分のしたいことだったが。
すっと背中を壁から離して、レティシアの方へと身を乗り出す。
「レティー」
こんなことをするなんて、今日の自分はどこかおかしいかもしれないと思いながらレティシアに抱きついた。
首筋に腕を回すと肩口に顔を埋める。
レティシアが驚愕のあまり硬直しているのが伝わって、くつくつとヴァンツァーは笑った。
レティシアがいつも唐突に触れてくる訳が分かった気がする。仕掛ける側としては楽しいものだ。仕掛けられる側としては避けたいものだが。
「……ヴァッツ……」
珍しくも呆れたふうに自分を呼ぶ声に再び笑う。背中に腕が回されるのを感じた。髪や背を撫でる手は優しい。
レティシアの体は思いの他温かかく、眠気を誘った。
「お前、何かあったわけ?」
「何かないと、抱きついては駄目か?」
「駄目かって、お前……明らかにおかしいぞ」
訝るレティシアが何処と無く気遣わしげで、笑う。
また笑った、とレティシアが呟いた。
「レティー」
「なんだよお前はさっきから……いつもとなんか逆じゃね?」
「珍しく、優しいな」
レティシアが、絶句した。何故だろう、今日はレティシアの反応の一つ一つがやけにおかしい。
以前まではこんな風に触れることなど考えもしなかった。いやそもそも空間を同じくするのに嫌気がさしたこともあるほどだったのだ。
随分と変わったと思う。自分も、彼も。
「……ヴァッツ、酔っ払ってんのか? それとも熱でもあるとか?」
「やはり、優しい」
「ヴァッツ」
咎めるようなその声にヴァンツァーは緩めていた口元を結ぶ。それから目を閉じると、よりレティシアの体温が感じられた。
「遠いところに来たな、俺達も」
「ああ」
レティシアが答える。

全て、置いてきたつもりだったのかもしれない

小さく囁く。
置いてこられる訳などなかったのだ。どれもが全て、ヴァンツァーを構成していたのだから。
過去が断ち切れる訳などない。理解はしていたし、そのことに絶望したりもしていない。
ただ、遠くへ来たのだと思った。
「だが、振り返ってみれば全部、繋がってる」
「うん」
それに気付いた途端、ゆるりと迫ってくるものがあった。
しかし、やはりそれは過去に過ぎない。ここまで自分は、そしてレティシアは変わったのだ。囚われることがひたすらに続くなど、きっとないのだ。
レティシアに触れる自分、彼の体温、そして自分への対応。
そこから感じ取るものが、あった。
そう、自分は確かにこの体温に安堵が出来たのだ。
「……本当に、遠くにきた」
髪を撫でるその手が心地よい。ヴァンツァーのこめかみに柔らかいものが触れる。
「たまには、こういうのも悪くねえかもな」
やはりその声が優しく、そしてそれを優しいと思えた自分に満足した。


「ヴァッツ……」
名を呼ぶが、反応がない。顔をのぞき込むとヴァンツァーは眠っていた。
この男が自分の腕の中で眠ったことにレティシアはくしゃりと笑う。無性に泣きたくなった。
だがこのタイミングで眠られたことが少しだけ残念だった。
とはいっても今のヴァンツァーに手を出す気分にはならず、レティシアはそっと彼の髪を撫でた。


ひとめぐり



甘い。

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