伊月はずるい。

遮るもののない屋上にごう、と風が吹く。
オレは食べ終えた弁当の空箱を持て余しながら、食い足りない、と呟いた。
小金井は先程宿題を忘れていたと騒ぎ出し、水戸部のプリントを写すために二人で教室に戻った。
オレらも戻るか、と腰を上げようとした時だった。
不意にそれまで黙っていた伊月が顔をあげた。
どうせ駄洒落でも考えているのだろうと思っていたのだが、どうやらそれは違っていたらしい。
「ひゅーが」
「ん?」
「嫌だったら、抵抗しろよ」
訝るオレが疑問の声をあげる暇もなく。真正面から両頬に手が添えられ、その端正な顔が近付いた。
唇が重なる。
おそらく一瞬のことだったんだろうが、オレにはとても長い時間に感じられた。
目を伏せた伊月の顔。
その目が開くのと、口が離れるのはほぼ同時だった。
伊月は薄く笑う。その目元が赤い。
「なあ、オレ──」

「日向のこと、好き」

思考がフリーズする。え、すきって、え?
オレが何らかのリアクションを返す前に、始業のチャイムが鳴った。
「戻ろうぜ、日向」
伊月がさっさと昇降口の扉に手をかけていた。
まったく普段どおりのその姿に、今更ながら先程されたことを意識して、かあっと顔に熱が集まる。
オレ、伊月にキスされたんだ。
不思議なことに嫌悪感はまったくなかった。
「い、伊月……!」
「なに?」
「いま、の」
伊月の頬はうっすらと赤かったが、いつも通りに微笑むだけだった。
その顔に、そしてそこから先程キスしてきたときの表情を思い出して心臓が早鐘を打つ。
「イヤだった?」
「……」
オレは何て答えたらいいか分からず、微かに首を横に振ることしか出来ない。
伊月はもう一度笑って、囁く。
だったら、期待してもいいかな、と。
その顔は、ずるい。
顔の熱さと鼓動が中々収まらない。今の自分の顔を想像して、これで教室に戻るのはまずいだろうと考えた。何とか落ち着きたい。
しかし、だ。目の前の伊月がそれをさせてくれない。
はめられた、と思う。
「……ずるい」

浸食の鐘
(090219))



inserted by FC2 system