ガサガサとビニール袋の擦れ合う音が日向は嫌いだった。
二リットルのペットボトルが二本入った袋を持つ右手は限界を訴えている。
食い込んだビニールが恨めしい。
左手の食材がたっぷりと入った袋と右手のものを持ちかえて息を吐いた。
汗をかいているだろうが、生憎と拭うのに空いた手はなかった。
マンションのロビーはひんやりとした空気が漂っていて、外の太陽に射殺されそうだった日向はほっとした。
なにぶん室内クラブ所属なので日光には一般人程度の耐性しかない。
水泳部のこんがりやけた皮膚を思い出して、よくやるよなぁと思う。
エレベーターが今止まっているのは十二階、目的の階は四階。
体力造りの為に階段を使うか否か。
エレベーターを待つ時間、というのは日向が嫌いなものの一つでもあったから、悩んだ。
暑い。階段を使えばより暑くなるが、エレベーターは今十二階だし、とぐだぐだ悩んだ挙句階段を使った。
きっと悩んでいる間の時間でエレベーターは来たに違いない。
自分の優柔不断具合が嫌になる、と舌打ちして四階にたどり着けば、エレベーターの階数表示がぐんぐん四階を抜いていく。
途端全てを放り投げ出したい衝動に駆られるのは暑さの所為である。
その癇癪を一瞬で制して、日向は目的の部屋へと向かった。四○八号室。名前のプレートは掛かっていない。
片手に袋を二つ持ってドアノブを引くが、鍵がかかっていた。本日二度目の舌打ち。
腹いせのようにインターホンを押そうかと思ったが、止めた。苛立つのは自分だけだ。
ポケットから自宅と、それからこの部屋の鍵の束を引っ張り出す。
何で自分はこの家の合鍵なんて持っているのだろうかと見るたびに思った。

乱暴に靴を脱ぎ散らかして部屋に入る。外との温度差が激しく、涼しいを通り越して肌寒い。
「伊月!」
大声を上げて入り込んでも、伊月は手元のパソコンやら何が何だか分からないような機械相手に夢中である。
エアコンのコントローラーを探して、温度を上げた。なんて地球に優しくない部屋だ!
さっと台所を見ると流し台には空の食器が転がっているので、日向は今日はちゃんと食ったのかと呟く。
それだけであれだけの苛立ちがなりを治めてしまった。振り上げた手の下ろし場所がなくなった、という感じである。
「自分で洗うから」
だから、片付けないでいいよ、と伊月が笑う。何と言うタイミングの良さ。
日向が部屋に入ったことも気付いていて、その怒気が治まるのを待っていたのだろうか(いやそうに違いないと決め付けて日向は伊月を睨んだ)。
手の中の袋を放り出して、日向は冷たいフローリングに寝転がった。
伊月はその様を笑いながら、ビニール袋の中の物を冷蔵庫に入れていく。
「……オレ、トマト嫌いなんだけど」
「好き嫌いすんな。仕事は?」
「んー、一段落着いた」
「あっそ」
伊月は天才だった。工学分野での目覚しき才能。
その結果が満足に大学も禄に行かず(大卒の証明が欲しいだけのようだ)こうして引き篭もって仕事してる訳だが。
相田カンパニーが伊月に目を着けたのは全くの偶然であったが、その引き金となったのが自分であることに日向は後悔している。
そうして回りまわって、これである。
何故自分が伊月の世話をしているのか、未だに納得がいかない。
相田カンパニーの都合で伊月は親元から離れたのだが、そうすると食に対して興味の薄い伊月の食生活が問題となった。
そしてたまたま伊月の引越し先に大学が比較的近い日向に白羽の矢が立ったわけだ。
確かに高校在学中は最も仲が良かった(周囲から見れば、であるが)日向だが、伊月の世話をするような責任はない筈である。
しかしそこを丸め込んだのが相田リコであった。
『まあまあ。きっかけは日向くんじゃない。それに、伊月くんのこと、心配じゃない?』
時々でいいから、ね?
その時々が最早日常になったわけで。
相田リコは日向順平の天敵である。それは出会った当初から今も変わらない。
しかし最大の敵は、
「ひゅうがー。オレ、ピザ食べたい」
こいつである。
「トマトたっぷりの?嫌いじゃなかったっけ?」
ひくり、と頬が引き攣る。
「……生じゃなければいい」
日向の機嫌を伺うフリを(そう、あくまでフリだ)しながら伊月はねえ、ダメ?と笑う。
伊月は偏食でもある。というよりは、食べたいとその都度思ったものしか食べようとしない。
どれだけ立派に料理を並べようと、肉が食べたければ肉しか食べず、野菜が食べたくなければ一切口をつけない。
そういうところを知っているので、喜ぶべきところであろう、が。
日向は拳を震わせて起き上がった。
「お前、中華粥が食べたいっつーから、この四日間、オレは……!」
慣れもしないまともに食ったことの無い中華粥に挑戦し続けたんだぞ!
日向が訪れるようになって、彼が食材ごと食を拒否することは減ったが、今度は料理の種類ごとになった。
食べたいものだけリクエストするのだ。
和食、と幅広いジャンルを指すこともあれば、パスタ、と言うこともある。
その期間の長さはまちまちだった。
ようやく中華粥を作る楽しさに目覚めた日向としては、怒りを通り越して脱力するしかなかった。
今の自分なら、そんじょそこらの主婦に負けないくらいの料理のレパートリーがあると自負している。
「うん、粥も美味かったよ。だから日向のピザも食いたいなーって」
「宅配でも頼め!」
大声で怒鳴って、リビングの中心にあるソファーに倒れこむ。
ああ、本当に腹が立って仕方が無い。
それでも、日向は伊月を甘やかしてしまうのだ。
「今日は粥。ピザは明日」
ちらり、と伏せた顔を上げれば伊月が嬉しそうに笑っているから。


勝敗は既に決まっている




(090729)
(091027:加筆修正)


inserted by FC2 system